理事長コラム 第2回

学校法人 せいわのわ 名誉理事長 山中 倫雄 連載インタビュー

第2回【恩師と盟友 〜非指示的療法との出会い〜】

中園康夫先生との出会い

中園康夫先生は日本を代表する社会福祉学者で、今では当たり前となっている「ノーマリゼーション」の理念を日本で最初に紹介し、その研究のリーダー的存在だったお方です。

中園先生の講義は、黒板に一切書かず、ご自身で翻訳された海外の文献を絶えず読んで、私たちは聞きながら書き写すということをしていました。

一方で、先生は大変引っ越しがお好きで、「山中君、頼む」と言われたらリアカーを持って引っ越しを手伝いに行っていました。
先生は音楽もお好きで、特にクラシックに詳しく、私も幼児期に蓄音機で音楽を聴いていて好きでしたので、引っ越しのお手伝いをした後は必ず聴かせてもらいました。

中園先生には、在学中も卒業後も公私ともに大変お世話になりました。
先生の教えの中で、私が夢中になったのは「非指示的療法」、今でいう「来談者中心療法」や「カウンセリング」です。
「非指示的療法」は、1940年代に米国の臨床心理学者カール・ロジャースが創始したもので、相手を説得するのではなく、相手の気持ちを聞く・共感をすることを重視し、相手の言動ではなく、その背景にある感情を大切にする方法です。

当時、日本は高度経済成長期で社会そのものは元気でしたが、人の心の問題を大切に考えたりするような時代ではなく、ポロポロとこぼれ落ちてくる人も出始めていました。
そうした中で、中園先生は「医療ソーシャルワーカーの現場や、学校の不適応児童を対策するには、非指示的療法が良い」と話し、当時は全くなかった、非常に進んだ考え方をお持ちでした。

盟友・久保紘章さん

カウンセリングの勉強をする際、私には同志がおりました。社会福祉学者の久保紘章さんです。 私より年上で、肺結核を患いながら仕事をするなど大変ご苦労され、福祉の仕事がしたいと大学院へ進まれていました。後に東京都立大学や法政大学の教授を務められ、今で言うセルフヘルプグループ(自助団体)の原点を作った方です。

久保さんについて私が強く思い出に残っているのは、「山中君、人が黙っているのは、それなりの理由と思いがあるからなんだ」と言った言葉です。
久保さんは「言葉がない人は、沈黙していて良い」「沈黙をどう理解して出すか。また、沈黙の後ろにある思いを、どれだけ理解できるのか」という考え方を私に教えてくれました。

そんな素晴らしい人が身近にいたので、私は高い目標を持つことができました。恵まれていたと思います。
久保さんも卒業してからも私を慕ってくれまして、私にも彼にはないバイタリティがあったのかもしれません。そうであったなら光栄です。

私と久保さんは、中園先生のもと「カウンセリング研究会」を作りました。私は大好きだった山登りよりも非指示的療法の研究に夢中になり、すべてのものの考え方がカウンセリング中心になっていきました。話し方まで変わってしまったので、実家では大変驚かれたものです。

臨床心理士として

研究に夢中になっていたある日、非指示的療法を創始したロジャースの考え方を一冊の本にまとめた友田不二男先生が三日間のカウンセリング研修会を行うというので、私も参加しました。
研修会には4〜50人が集まっていましたが、友田先生はそこへ出てきて、何にも言わずに沈黙で立っていました。
たいていなら「今からこうします、ああします」と司会があるものですが、それが一切ないのです。

そうすると誰かが耐えきれず声を上げました。友田先生はその声を聞きながら、場を動かしていきました。実は、これこそが「非指示的」なのです。私は友田先生からカウンセリングの洗礼を受けました。

研修を終えて友田先生の見送りにバス乗り場まで行った私は、何故かそのバスに飛び乗っていました。もちろん何も持っていません。
友田先生は「きみは何をやっているんだ?」と驚いていましたが、私が非指示的療法の研究をしたいと伝えると、「僕がやっている『東京カウンセリングセンター』へ来ないか?」と言ってくださいました。

大学卒業後、私は東京カウンセリングセンターへ飛び込んでいきました。江戸川区に教育研究所があり、遊戯療法の中で非指示的療法を行うことをテーマに、かん黙症の子どもを担当させていただきました。

同時に、友田先生から「カウンセリングを研究したいなら紹介してあげよう」と、日本の精神医療の原点をつくったといわれる都立松沢病院で、統合失調症の患者さんにカウンセリングを行うことになりました。
かつて精神障害者は、家庭内の檻の中に入れられて過ごしている時代がありました。それが許される社会だったのです。そういうひどい状態のときに、ドイツの考え方を取り入れ、日本の精神病医療に光を当てようとしていたのが松沢病院です。

当時は精神病の患者さんにカウンセリングを行うことはありえないと考えられ、薬か電気ショック療法が主流でしたが、千葉県市川市にある公立精神衛生センターにカウンセリングを行った事例がたくさんあり、その録音記録が残っていましたので、私たちは夢中になって聞きました。
また、実際に閉鎖病棟へ行き、カウンセリングに同席も行いました。

その後も、中園先生からお声がけいただき、臨床心理士として丸亀市や土佐市の病院でクレベリンテストやデイケアをやらせてもらいました。
中には「犯罪を犯した人の心理判定条件を出してください」という難しいケースもありました。私は社会福祉とは別の精神医療の世界にいました。

社会福祉の道へ

しかし、やはり私の原点は「社会福祉」にあります。
精神病の患者さんは世間から排除されてきた歴史がありますが、学校不適応の方々も同じです。姉弟の中でも成績が一番悪く、落ち着きのない子どもだった私は、どうしても後者の方に共感をするし、そちらへ目が行くんです。そして、自分にできることがあるんじゃないかと感じます。

私は社会福祉の世界で、自分の持っているエネルギーを出していけるんじゃないかと考えていました。
そこで勤務する病院の医師に「児童相談のような仕事に興味がある」と伝えましたら、「児童相談所の担当者を紹介するので、病院に勤務しながら週に一回児童相談所へ通いなさい」ということになりました。
私は相談員として「幡多児童相談所」へ通うようになりました。

集合写真 四国学院大学時代の理事長

次回「9歳の壁〜幡多児童相談所から難聴幼児通園センターでの歩み〜」に続く

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