理事長コラム 第1回

学校法人 せいわのわ 名誉理事長 山中 倫雄 連載インタビュー

第1回【社会福祉人としてのはじまり 〜父と母の教え〜】

私の社会福祉人としてのはじまり……それは私の両親の話とつながっていますので、少し古いお話をさせていただきます。

父と母

私の父は明治34年、現在の高知県仁淀川町にある安居渓谷の、さらに奥にある吉ケ成という集落で生まれ育ちました。
父は頭が良く、演説なども長けていて村の助役に抜擢されるほどでした。
また、当時では大変めずらしかったと思いますが、心身がより成長するようにと自らアメリカへ渡り、トロントで自動車免許を取得して大企業の重役の専属運転手として働いていたそうです。

ただ、結婚をしなくてはいけないということで一旦帰国しまして、いの町柳瀬という所にいた学校の校長の娘と見合いをすることになりました。それが私の母でした。
母は明治42年生まれで、医者や教師の家系に育ち、土佐女子高校を首席で卒業するほど頭が良かったそうです。

一方で、学校へは船に乗って川を下って登校し、帰りは船に乗って綱を引くようにして川を上り帰宅したという苦労話も母からよく聞かされました。
そんな母は、父から「アメリカへ連れて行ってあげよう」とプロポーズされて結婚を承諾したそうです。ところが、すぐに戦争が始まる気配が漂い、開戦直前に日本へ帰国することになりました。

父はタダでは戻らず、金鉱で働いてゴールドを持ち帰り、吉ケ成へ蔵を建てて蓄音機や本を揃えていました。そのおかげで、私は幼いときから音楽や本に触れあい、山奥にいながらとても文化的な生活をおくっていたと思います。
母は気の毒でしたね。“お嬢さま”で育ってきたのに、帰国してからは全く環境が異なる集落で、10人以上いる家族の食事を作ったり農業の手伝いをしたり、雨が降る日も働いて、一番苦労していました。

母は「子育て」をする時間もなく、代わって世話をしてくれたのは3人の姉たちです。私は姉弟の中でたった一人男でした。あらゆるものから学んで育つ私は父や母の背中であったり、自分を取り巻く環境から、様々なことを学んだと思っています。

私は集落から山を下りた場所にある安居小学校へ通っていました。山の上から坂道を降りて、川沿いの細い道を歩きながら40分かけて小学校へ行きましたが、「体幹」をつくるために非常に重要な影響を与えてくれたと、今では思います。
また、当時は人間が山にへばりつくように、一つに集って暮らしていましたので、保守的ですが平和的な生活をしていたと思います。

電気がなかったため、夜はランプを使っていましたが、ランプの中に“ホヤ”という、子どもの手じゃないと掃除ができない小さな部品がありまして「生活の中の重要な仕事を、私たち子どもが担っている」という自負もありました。
昭和23年になると、父は「山へ電気を引きたい」と言いまして、県庁と交渉して山奥の集落まで電気を通しました。たった40ワットの灯りでしたが、当時使っていたランプに比べればとんでもない明るさで、私が「明るい」という感覚を持ったのはそれが初めてだったと思います。

今思えばこの「明るい」という感覚を覚えたのも、私たち子どもに対する父の教育の一つだったと思います。
先見の明があった父は、「戦争が終わり、これからは子どもが増えて働く女性も増えていくはずだ。必ず子どもを預かる施設が必要とされる」と、山の木を売り、池川町にある善法寺で保育所を始めました。

昭和26年のことです。当時は講習を3ヶ月程度受ければ保育士になれ、保育所を始めるにしても現在のような厳しい規制や条件はなかったそうです。
母は保育士資格を取って働き始めましたが、やっと自分の知的能力財産を発揮できるようになったと思います。
そして、その母のサポートがあったから、池川保育所は軌道に乗ったのだと思います。

母の保育は、とても上手でしたね。母はクリスチャンで、その信仰に基づきながら保育を行っていました。
私の社会福祉の感性というのは、母が育ててくれたのだと思います。

昭和30年代に入ると、父は「高知市は第二次ベビーブームが到来し、これから子どもが増えてくる。ずっと保育所をやってきたが、今後は『幼児教育』を行うことも大事ではないか」と言い、高知市で幼稚園を開こうと動き始めました。
まずは伊勢崎町にあった教会を借りて開園しまして、その間に土地を探し、叔父の助けを借りて土地を買いました。

それが「清和幼稚園」です。

父も母も広い視野を持ち、何に対しても地道にコツコツやる人でした。そういう姿を幼少時代に見せていただことは、自分にとって学びであったと思います。
また、今こうして振り返ると『父の先見性』と『母の姿』は、私の社会福祉人としての生き方にも大きく影響を与えたと感じます。

オール3の子ども時代

小学校、中学校、高校の私の成績は“オール3”でした。4をとることも、2をとることもめずらしい「だいたい3」の子ども時代でした。ずっと3をとってくるので、自分自身でも「何をやっても目立たずに普通だ」と感じていましたし、姉たちはすごく成績が良かったので、私だけが凡作のようで、父はどこかで幻滅していたのではないかと思います。

小学生のころ、何かとよく忘れる私を見て、母は「落ち着きがない。背中が曲がっている」と、私の背中に物差しを入れて「落ち着いて考えてごらん」と言っていました。
今でも自分が何かを忘れてしまった時は、母を思い出します。

幼児期や児童期の特性や思い出というのは、生涯その人に残っていく「基礎」になります。なかなか修正はできませんので、受け入れながら生きていかなくてはいけないというのが、今の私の実感です。

そんな私も、高校2年生になるとやっと落ち着いてきまして、図書館へ通ったり山登りを始めました。自分の進路についても考えるようになり、父や母の姿を見て育ちましたので「やっぱり福祉の仕事かな」と思いました。

最初に受験をした福祉大学は、不合格でした。

試験へ行く途中、列車の中に捨ててあった週刊誌を拾って読んでいたら、「君は何をしているんだ」と警察に声をかけられまして。
「読み捨てているものだと思って読んでいました」と答えると、さらに「どこへ行っている?」「試験を受けに行きます」「一応名前だけ控えておこう」というやり取りがありまして、そんな状況の後で試験をしたものですから、気持ちが乱れてしまって受かるわけがないですよね。

後日、不合格の手紙が届くのですが、たまたまその場に父がいまして「どうだった?」と聞かれ、「お父さん、不合格です」と伝えたあの時の、父のがっかりした表情は深く印象に残っています。

父が「一年浪人して、再度挑戦してみなさい」と言ってくれたのですが、私は浪人中も山登りばかりしてしまいました。すると、姉が「お父さん、倫雄はこのままではダメになるから禅寺へ入れなさい」と言いまして、私は高知市にある寺へ入ることになりました。

座禅三昧

寺では朝4時に起きて6時まで座禅。朝食が済んだら9時から10時まで座禅。昼以降は座禅はないのですが、また夕方4時〜9時くらいまで座禅。座禅三昧でした。
しかし、そこで初めて「腰骨を立てる」ということを教えてもらいました。

正しい姿勢が身についたのです。

和尚は、私の父が保育所や幼稚園をやっていることを知っていましたので、「この息子を『継ぐ人間』にしなくてはいけない」と考えていたようで、温かく応援してくださいました。

和尚に「次は香川県にある四国学院大学のキリスト教学科(社会福祉を学べる学科)を目指しています」と伝えると、教会にも通わせてくれ、私は聖書を持って寺で座禅をしていました。 教会の牧師さんも推薦状を書いてくださり、私は晴れて大学生になったのです。

座禅を経験したことで心が落ち着いていまして、大学生になってからは勉強をすごく頑張れました。 山岳部もつくりまして部員は先輩一人と私の二人だけでしたが、統制していく力やチームとして何かをやっていくということを、そこで教わったと思います。

短期大学でしたが、幸いなことに大学院をつくるということになり、私はその社会福祉学科へ進むことにしました。
そこで、私に大きな影響を与える人物である中園康夫先生と出会ったのです。

四国学院短期大学での写真

次回「恩師と盟友 〜非指示的療法との出会い〜」に続く

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